621日午後2時から、恒例のKAIFA サロンが開かれました。今回はミャンマーです。

 

The 7th time KAIFA SALON was held at 2:00p.m. on June 21, at the Kaizuka welfare center.

Guest speaker is Ms.Aye Mya Thanda, from Myanmar.

She goes to Osaka University Graduate student to major in Japanese.

She talks about Myanmar, her mother country.

 

 

ゲストは「エィミャタンダ」さんです。

 

ミャンマーの人は基本的に「名」だけで「姓」がないようです。彼女は「エィミャ」と呼んでくださいとのことでした。「タンダ」は姓ではなく「名前」の一部だそうです。しかし国内には姓が有る民族もあるようです。

 

服の右肩から斜めに民族衣装の模様が見られます。

 

ミャンマーのヤンゴン外国語大学で日本語を学び、現在、大阪大学の大学院生です。専攻は日本語です。

 

非常に巧みな日本語で自国について語ってくれました。

 

まず始めに、出席者全員にプリントが配られました。(下記のプリント参照)

ミャンマーについての三択質問です。

この質問に従ってミャンマーを説明してくれました。

 

同じアジアの国でありながら、隣国のタイについては知っていますが、ミャンマーのことについては知りませんでした。

 

プリントの右側にエィミャさんから聞いた答えを書きました。答えも詳しく説明してくれました。

 

エィミャさんは自分の考えがあるのでしょう、「ミャンマー」という国名を使わずに、終始以前の国名「ビルマ」で通されました。


 

やはり、言語の研究者だけあって、日本語を例にとってビルマ語について話してくれました。ビルマ語は助詞を使う点、語順が同じ点があることが日本語に似ているそうです。

しかし、発音では鼻音が多いこと、中国語のように無気音と有気音があることなど、専門的な事まで上手な日本語で説明してくれました。

 

しかし、時々「メチャ難しいです」などの若者の言葉を使って場を和らげてくれます。

「はい、皆さん、声をそろえて大きい声で『ミンカ゛ラーバー』」と勉強もさせてくれました。

 


ビルマ語はミャンマー連邦共和国の公用語で、その最大民族であるビルマ族(バマー)固有の言語です。135あるといわれる民族はそれぞれの民族語を持っています。ビルマ語は民族間の共通語でもあり、新聞やテレビ、ラジオなど国内のメディアは基本的にビルマ語で発信されます。

現在の話者人口は5000万人を超えると考えられ、通用する地域はミャンマー連邦内に限られます。 

 

 

エィミャさんの話によりますと、ビルマ人は「有難う」を言わない国民だそうです。しかし、「感謝する気持ちは誰でも持っています」と強調していました。

例えば隣の人が表の道路を掃除していると、「表を掃いてくれているのですね、明日は私がします」と言うことで感謝を表すのだそうです。

何かしてくれている事に対して改めて「有難う」というと、その「有難う」という言葉の中に「してくれた事を強要させたような気持ち」があると考えているようです。

 

ビルマに隣接する国はバングラデシュ、インド、中国、ラオス、タイです。

 

エィミャさんは、この様なことも話してくれました。

 

中国が自国の電力事情のためビルマの北部の川の上流にダムを作るプロジェクトを政府と結びました。見返りに多額の金がビルマに支払われました。この川に頼って生活をしている人々の事を考えたとき、中国という国が嫌になりました。

 

しかし、日本に来て大学でいろいろな国の留学生に会いました。

皆、いい人ばかりです。特に中国の留学生は思いやりがある立派な人ばかりです。国と国との付き合いもどうして、人と人との付き合いのように行かないのでしょうか。個人同士の、小さくても良い交流関係をどんどん拡げて大きくしていきたいと思っています。


 

ビルマというとどうしてもアウンサンスーチーの名前が出て来ます。

ビルマ人は姓を持ちません。アウンサンスーチーの「アウンサン」も姓や父姓ではなく、上に書きましたように個人名の一部分に過ぎません。アウンサンスーチーの名前は、父親の名前(アウンサン)に、父方の祖母の名前(スー)と母親の名前(キンチー)から一音節ずつ取って付けられたとのことです。

 

英国の植民地だったビルマで独立運動を主導し、その達成を目前にして暗殺された「ビルマ建国の父」アウンサン将軍の娘です。

父の死後母と共に各国をまわり、インド、英国、米国の大学で学び、オックスフォード大学の後輩の英国人と結婚し、その後、京都大学のアジア研究センターの客員研究員として来日し、父アウンサン将軍についての歴史研究を進めたそうです。

 

1988年に病気の母を看護するためビルマに戻りますが、学生を中心に始まった反政府運動に参加演説を行い、1989年に自宅軟禁されます。国外退去を条件に自由を認めるともちかけられますが拒否したと言われています。軍事政権は1990年に総選挙を行い、アウンサンスーチーの率いる国民民主連盟が大勝しますが、軍政側は、「民主化より国の安全を優先する」と権力の移譲を拒否しました。この強硬な姿勢は国際的に激しい非難を招き、アウンサンスーチーは1991年にノーベル平和賞を受賞します。そして2010年に軍事政権が軟禁を解きます。

彼女はこの様にアウンサンスーチーを熱く語ってくれました。

 

なお、彼女は生活、料理、第二次大戦遺産の泰緬鉄道、などについても話を続け、またたく間に2時間が経ちました。

 

 

  参加者全員の写真です。




 

ご参考までに、ビルマ語の文字を載せておきます。


 

この様な文字もあるのですね。

 

これはビルマの有名な女流作家ジャーネージョーママレーという人の小説の一節です。この小説はビルマでベストセラーになり、日本語にも『血の絆』という題名で訳されているようです。

主人公の由美は大阪外国語大学のビルマ語学科を卒業、大学院を修了したという設定になっています。機会があれば読んでみてください。

 

「KAIFAサロン」へ戻ります
「KAIFAサロン」へ戻ります